- 幼いころの話。
早くに両親が離婚して母親に引き取られた私は、母親が働いている間祖父に面倒を見てもらっていました。
祖父は背が高い上に顔が怖い人で、見た目のとおり厳しく、行儀が悪いと説教と鉄拳制裁をする怖い人でしたが
いつもそばにいてくれた祖父が大好きでした。
祖父は珍しいもの、綺麗なものをたくさん持っており、その中でも鯉が描かれた湯呑みを気に行った私は
「使わせて」「ちょうだい」などとお願いしていましたが
「湯呑みは一緒に使うものじゃない」と言って触れることすら許してもらえませんでした。
そんな祖父が病に倒れ、危篤状態となり、学校を早退して祖父の元へ駆けつけた時
すでに祖父の意識はなく、母親や祖母、お医者さんや看護婦さんが慌ただしくしている中、私はじっと祖父のそばから離れませんでした。
すると、祖父は意識を取り戻し、大きな手で私の手を握り
「いい子にしていなさい。あの湯呑みはお前にあげよう。」と一言。
それが祖父の最後の言葉でした。
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葬儀が執り行われる間、私は祖父から貰った鯉の湯呑みを片時も離さず
湯呑みでお水を飲んでは洗って、そばに置いていました。
祖父の棺の前で湯呑みを隣に置き、漫画を読んでいると、母に呼ばれ、漫画と湯呑みをそこに残したまま母の元へ。
母と祖母は台所でお昼ご飯を作っており、私は手伝いを頼まれたのです。
手伝いが終わって棺の前に戻ると、湯呑みと漫画がない。
母も祖母も台所にずっといたので片付けされていないはず。
不思議に思って辺りを見回すと、部屋の隅にある机の上に湯呑みと漫画が置かれていました。
幼かった私は、何の違和感もなく祖父の遺影に向かって、普段怒られていた時と同じように
「ごめんなさい」と頭を下げました。
当時は何とも思っていなかったのですが、大人になってそのことを思い出すと
床に湯呑みと漫画を置きっぱなしにするのは行儀が悪いと叱ってくれたのかもしれません。