- 去年の夏のこと。
午後遅くの山手線は家路に着く人たちなのか、はたまたこれから遊びに行く人たちのか、そこそこに混んでいた。
定時で仕事を終えての帰り道はいつも一時間弱かかり、できることなら電車内では座っていたいところであったが、ちょうど座席に空きが見当たらず、つり革につかまり立っていることになった。
目の前の席には5歳くらいの女の子が座っており、そのとなりには母親らしき女性が前抱きのベビーキャリアに赤ん坊を抱き、買い物の紙袋を足元に置いて座っていた。
品川から大崎、五反田、目黒、恵比寿と電車が進んで行き、母親の胸元で赤ん坊は時々思い出したようにむずがっている。
ケータイでメールを打ちながら、サングラス越しに親子を観察する。
母親は若い綺麗なひとで、多分30半ば程度だろう。白いTシャツの上にブルー系のチェック柄ベアトップのワンピースを着ている。温厚そうで赤ん坊を見る目が幸せそうな感じだ。
その母親のとなりで行儀よく座った少女はつやつやのショートヘアでくりっとした大きな目をしている。白いTシャツにいかにも手縫いといったピンクと黄色のまじったチェック柄のスカートをはいて、ピンクのサンダルをはいている。
私の持つケータイの大量のストラップが気になるのか、しきりに私の手元を目で追っていた。
- 少女は赤ん坊がぐずるたびに
「泣いてるの?」
「お腹減った?」
と小さな声で、母親にとも赤ん坊にともつかない質問を投げかけた。
母親はキャリアを揺すって赤ん坊をあやし、
「お腹減ったのかな?」
と、同じように赤ん坊に問いかけている。
渋谷に電車が到着すると、車内はにわかにあわただしくなり、乗降客がどっと増える。
つり革につかまったまま周りを見渡すと、向かいの席の一番はしが空いていた。
私はすばやく移動してその席に座り、膝の上に荷物を乗せた。ここから新宿に向かって車内が混み合うのでとてもツイていると思いながら。
案の定、人が増え、座席はあっという間に埋まって座席の前のつり革も満員となった。
私はさっきまで観察していた親子のことなど早々に忘れ、座席に座れたラッキーを噛みしめながら、手元のケータイに目を落とした。
- 折りたたみ式のそれをパチッと開くと、画面が真っ暗になっていた。座席に座る、ほんの30秒ほど閉じていた間のことだ。
突然のことではあったが、こういうことはよくあるので、気にせずに電源ボタンを長押しした。
しかし、押し続けても電源が立ち上がらない。
たびたびお風呂に持ち込んだり、床に落としたりするので、接触が悪くなっているのだろうか。
こんなところで突然故障、ましてやデータの消滅なんてことになってはたまらない。
にわかに私はあわてた。
「これはミニー?」
その時、横から小さな手が伸ばされて、私のケータイを指さした。
ギョッとしてとなりを見ると、そこには小さな5歳くらいの女の子が座っていた。
「これはひつじ?」
髪の短い女の子は白いTシャツにピンクのスカートをはいている。床に届かない小さな足には、おもちゃみたいなピンクのサンダルがはまっている。
私は混雑して見えない向かいの座席を見透かそうとしたが、それは無駄なことだった。
赤ん坊にしていたのとまったく同じような問いかけは、私にというより、まるでひとり言のように、遊び歌のように続けられる。
小さな指は、順番にストラップを指さしていった。
- 「これはミニー?」
「これはチップとデール?」
「これはセリア?」
「これはお人形?」
「これは首飾り?」
「これはなに?」
「これはなに?」
「これはなに?」
三回目の問いかけで、少女はぱっと私の顔を見た。
多分、私はその顔を一生忘れないと思う。
ガタンっと電車が大きく揺れて、膝に乗せていたバッグが床に滑り落ちそうになった。
あっと思って手を伸ばした。
もう一度となりを見ると、女の子はおらず、座席にはサラリーマン風の男性が静かに座っていた。
電車は、池袋に到着していた。
乗り過ごした駅を戻るため、内回りの電車に乗り換えようとホームの階段を下りながら私の目は自分の足元に集中していた。
間違えても二度と、あの少女の顔を見てしまわないように。