とある小説家の話

453 :[sage]:2011/02/04(金) 22:53:05 ID:0eA9Ogs10
とある小説家の話だ。

その小説家はもう随分前に自殺という手段でこの世を去っている。
自殺の理由に関しては色々と不審な噂も聞かれているが、
遺書もあり、精神を病んでいたことによるものだと言われているし、
事実そうであったと聞く。ここまで書けば誰なのか察しはつくかも知れないが、
敢えてここではその名を伏せることにする。別に故人の名誉を守るとか、
そういった意味合いではない事も同時に明記しておく。そんな、小説家の話だ。

もともと彼は、児童向けの短編、寓話的な話を多く書いた。
その題材は様々で、キリスト教から中国故事に倣うものまで、幅広く書いた。
その中には、所謂オカルト的なものもいくつか含まれていた。
だが晩年、徐々に精神に異常を来し、神経衰弱が進むにつれて、
やに精神的な話を書くようになっていった。そうして、狂っていく中、
正気との狭間で書き続けた話のいくつかには、今でも語られる逸話があるが、
今回はそのことには触れずにおく。

彼は神経衰弱の末、ある夏の日に自殺を決意し、それを実行し、この世を去った。
この死に関しても、やはりいろいろの不穏な噂話がまことしやかに語られている。
やれ「自分のドッペルゲンガーを見た」だの、或いはしきりに
「目の中にあるものが見える」などと周囲に言っていた、等が主たるところであるが、
それらは暗黙の内に肯定された事実となっている。当時としても、
その死に関して様々な憶測が飛び交ったが、かように現代でも、
彼の死にはオカルト的な奇妙な因縁を感じるものが多く
「遺書を認めた原稿用紙に、本人のものではない血がついていた」や
「死の直前に書き、破棄したはずのある短編の書き潰し原稿が、死後に元の形で発見される」
など、そんな話も時々語られている。

454 :[sage]:2011/02/04(金) 22:53:54 ID:0eA9Ogs10
話は逸れるが、前者の遺書の話に関して言っておくと、彼は
血を流すような自殺の手段はとっておらず、服毒による自殺であり、
その死の場所は床の中だったことから、遺書の遺稿を見た誰かが、
その原稿用紙の染みを血痕に見立てて面白おかしく書き立てたのだと思われる。
後者の破棄したはずの短編は、その真偽はともかく、未完の遺稿として改題され、
全集にも収録されている。その内容に関して、彼の旧知の知人が残した文章の中に、
その短編と一致するいくつかの単語が記されているので、
照らし合わせてみるのもなかなか興味深いだろう。
(ただこの点に関してもいくつか不審な点があり、原稿はいつ発見され、
いつ書かれたものなのか、という部分が曖昧であり、それがまた尾鰭のつく要因になっている)

話を戻して、彼の死の直前、といっても数日前にだが、
彼に面会した人間が何人かいる。そのうちの一人が残した、奇妙な話がある。
ここからが、本題である。死の直前に、小説家に相対したその一人は、
小説家と旧知で同門だった。ここも名前は伏せるが、区別のために
自殺した小説家をAとし、その知人をBとする。そのBが、こんな話を残している。
伝聞による再構成のため、主体が判然としないところがあるが、どうか了承して欲しい。

455 :[sage]:2011/02/04(金) 22:55:14 ID:0eA9Ogs10
Aは生前、作品の分類的には中期に入る頃から、様々な
奇妙な話を蒐集する事に熱心だったという。Bも勿論、
そう言った奇異なる話は興味の対象だったため、
Aの蒐集してきた話を面白がって聞いていた。無論、今では
ありきたりになっている古典怪談の類や、おそらく現在の
奇譚異聞の原形になったであろう話、今で言う都市伝説のようなものまで、
その幅は広かった。中には、Aが自分で蒐集してきた話を
短編の題材にしたものも何編か残っている。
それくらい、Aの持ち寄る話は、奇妙で、不可思議で、
ある種の魅力に溢れていた。そしてある日、AはBにひとつの話を聞かせた。

「こんな話を知っているかい」

とAはにやりとしながら切り出した。

「ある地方では、人が死ぬと、その人が生前使っていた鏡を割ることがあるんだそうだぜ」

いつもの様にAの蒐集してきた話に耳を傾けていたBは、頷きながら先を促した。

「鏡に対する信仰、というらしくてね」
「それは宗教的な意味合いかい」
「いや、あくまでも土着の風習のようなものだろう。僕はそう聞いた」

Aはちら、と部屋の入り口の脇に寄せてある鏡台に目を向けた。
つられてBも、鏡台を見る。最近買い換えたばかりなのか、妙に真新しい印象だった。

「それで、何故鏡を割るんだね」
「鏡から、その人が出てくるのを防ぐためだよ」

鏡台から視線を戻さず、こともなげにAはそう答えた。

456 :[sage]:2011/02/04(金) 22:56:07 ID:0eA9Ogs10
「鏡の中に映る人、というのは、元来鏡の中に生きる人で、
それが平生僕や君の形を成して、僕や君が鏡の前に座る時現れるんだそうだ」

Bは、いつもよりもAの話に惹かれ、立ち上がって
鏡台のところまで歩いていった。鏡台には布が掛けられている。

「布をとってもいいかい」

Bがそう聞くと、Aは相変わらず人を食ったような表情で、
無言のまま頷いた。Bは布をめくり、その中をのぞき込んだ。

「じゃあ、こうして今鏡の中に映っている私は、私ではなく、
鏡の中に棲む私が見えているだけというのか」

そういいながら、Bは右手をあげたり、左手をあげたりしながら、
鏡の中に棲む自分とやらと見つめ合った。

「そうだ。そうして人が死んだ時に、その鏡を割ってやらないと、
そこに棲んでいるものが出てきてしまう、という話らしい」
「成る程、面白い風習だ」

Bは、下心もあってか、その話が何かの自著の題材に
できないかと思い、更に先を促した。

「勿論、この話には続きがある」

Bはそれを聞いてAに向き直り、どんな話が語られるのかと構えた。
そんな様子のBを見てAは薄く笑ったが、すぐに真面目な顔になり、声を少し落とした。

457 :[sage]:2011/02/04(金) 22:56:48 ID:0eA9Ogs10
「鏡を割る、と言うよりも、鏡を割らなければいけない、という意味でもあるそうだ」

Aは続ける。

「鏡を割らないでいると、鏡の中に棲むものがこちらに
出てきてしまい、死んだものと成り代わる、というらしい」
「鏡の中に棲むものが、実体を得ると?」
「そうだ、そして、その抜け出たものは鏡に映らなくなり、
抜け出たものがその鏡を割ってしまうと、もう誰もそれが
鏡の中から出てきたものだとは気づけなくなってしまう、ということらしい」

そこまで聞いて、些かBはがっかりした。Aの話しぶりからして、
もう既にAはこれを題材にした腹案を持っているだろうということが、
直感的に分かった。それと同時に、友人の蒐集した奇譚を剽窃しようとした自分を恥じた。

「与太話だと思うだろう」

そんな様子を見ていたAがBにそんな事を聞いた。

「僕だって、馬鹿げた話だなと思うさ」

意外なことにAはそんな風に続けた。Bはその態度に戸惑った。
Aはそう言った話に対してはやに執着する気があった。
今まで自分の蒐集した話に対してそんな事を言うのは、聞いた事がなかった。

「だが」

戸惑うBを余所に、またAは続ける。

「あながち、ただの与太話ではないかも知れない、という気はするがね」

Bはころころと変わるAの態度が、いよいよ分からなくなった。

458 :[sage]:2011/02/04(金) 22:57:38 ID:0eA9Ogs10
「それは、どう言うことだい」
「枕があるだろう。寝る時に使うあれだ」
「ああ」
「人間は、生きている内で、その多くの時間、頭を枕に預けているだろう」

急に話は枕へと逸れた。Bはまた、そこから
どんな奇譚が飛び出すのかと、戸惑いながらも、身構えた。

「魂や心というものは、頭に宿る、という話は聞いたことがあるだろう?」
「いつか、君が話してくれたような気もするね」
「そうだったかな。まあ、その魂や心の宿る頭を
預け続けている枕には、少しずつ魂や心が移っていく、という話もあるんだ」

人間が生きている内に、そうやって魂や心を傾けているものには、
少なからず魂や心が移っていくという話が往々にしてある。
枕は勿論のこと、筆や硯、言うなれば家などにも、それは移っていく。
そう思えば、鏡だってそれが移る事があっても、何ら不思議はない。
形は違えども、そういった思想の上に、その話が出来たのだろう、とAは語る。

「そら、このペンだって僕は愛用している。
だからこれには僕の魂が幾らかは移っているんだぜ」

Aはそう言って、机の上のペンを取って見せた。Bにしても、
成る程と思える話だった。多分に余計な尾鰭がついたのは、
Aの持ち寄った話であるからだが、その根底には「ものに宿る人の魂」
のようなものが見え隠れしていたし、いつか聞いた「九十九神」のことも思い浮かんだ。

459 :[sage]:2011/02/04(金) 22:58:55 ID:0eA9Ogs10
そこでAの話は終わった。Bは、また鏡に向くと、そこに映った
己の姿をぼんやりと眺めた。そして、そのぴかぴかの鏡面に映った自分は誰なのか、
鏡の中の自分とやらなのか、とそれを考えていた。そうこうしているうちに、
階下で呼び鈴が鳴った。郵便夫のようだった。生憎、その時Aの家には
AとBの二人しかいなかったから、Aは「失敬」と言いながら立ち上がった。
BはAの邪魔にならぬように、鏡台から下がって、入り口への通路を開けた。
そうして、Aが横切って行くのを目で追っていた。
ふと、視界の向こうに、鏡が見え、何の気なしにそれをのぞき込んだ。
だが、そこにはB以外の何者も映っていないのをBは見た気がした。

階下へと下って行く足音にはっとしながら、Bは、
先程Aがペンを取った手は、果たして右手だったか、左手だったかと思い返そうとしていた―――。



この話はそこで終わっている。果たしてこれがBの創作であるのか、
実話であるのかは分からない。だが、ここにこうして、或る小説家にまつわる
もう一つの話があったことを、記しておく。

Aは、鏡から抜け出た何か、だったのか。
この話がもしも、真実であるのならば、彼が晩年に見かけたと言われる
ドッペルゲンガーというものは、或いは―――。

460 :本当にあった怖い名無し[sage]:2011/02/04(金) 23:03:19 ID:0eA9Ogs10
以上、伝聞ですが、長文失礼いたしました。

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